イントロダクション
世界的大ヒットドキュメンタリー映画『あなた、その川を渡らないで』(2014年)のチン・モヨン監督をエグゼクティブ・プロデューサーに迎え、長年連れ添ったカップルの日常に焦点を当て、6カ国、6組のカップルの生活を、現地在住監督と制作チームがまる一年にわたり丁寧に記録。
日本篇の監督はLittle Stranger Filmsの戸田ひかる。撮影監督に第一回大島渚賞受賞で話題を呼ぶ小田香(『セノーテ』(2020))、編集者は佐藤真監督や小森はるか監督作品を手掛ける秦岳志など、日本のインディペンデント映画界の第一線で活躍するスタッフが結集。この他、インド、ブラジル、スペイン、韓国、アメリカの全6エピソード共に、インディペンデントの作家たちによるダイレクト・シネマ形式で制作されており、Netflixオリジナルシリーズとしては新たな挑戦となる。
日本篇で予定されていたリサーチ期間を大幅延長しついに戸田監督が出会ったのは、結婚50周年を迎える石山春平さん(85歳)と絹子さん(83歳)夫婦。屈託のない笑顔が眩しい絹子さんと反応に困る駄洒落を連発する春平さん夫婦は、四季折々の草木に光が降り注ぐ中庭のある小さな団地の一角で暮らす。歳を感じさせない行動力の春平さんは、身体に障害を抱えながらも障害のある人の送迎ボランティアや講演会など忙しく全国を飛び回る。小さな体でハキハキと力強く話す絹子さんは、「生活記録」として短歌を詠み、写経に通い、二人で植えた植物が育つ庭を静かに手入れする日々を送っていた。二人の出会いをたずねると、恥ずかしがりながら情熱的な過去を語る絹子さんに、「彼女の熱意に負けちゃったんだよ」とおちゃらける春平さん。ふと真剣な面持ちに戻り「結婚なんて夢の夢だと思ってた」と振り返った。
二人が出会ったのは、ハンセン病療養所。春平さんは12才の時に発病し、実家の納屋で4年間の隔離生活を強いられた後、入所。当時は強い感染症と間違って考えられていたハンセン病を根絶するため、全国で感染者を隔離・強制収容する「無らい県運動」が盛んになった。根強い偏見から退所も外出も許されず、家族との再会も実名を名乗ることもできないまま、多くの人は一生療養所内で暮らすことになった。
紡績工場で働きながら夜間学校に通っていた絹子さんは、ある日一つの新聞記事に出会い、ハンセン病療養所で働くことを決心。しかし療養所内での患者とスタッフ間の格差に悩んでいた時に、いつも笑顔を絶やさないカメラ青年・春平さんに惹かれ、告白。そして二人で療養所を出て社会復帰することを決断し結婚。だれも知らない土地に引越し、夫婦二人三脚で三人の子供を育てあげる。差別・偏見を怖れハンセン病については一切周囲に話していなかった二人だったが、1998年のハンセン病国家賠償請求訴訟をきっかけに自身の体験について語るようになる。最初はためらっていた絹子さんも次第に積極的に啓蒙活動に参加するようになり、二人で講演するように。そして2019年6月、ハンセン病家族国家賠償請求訴訟の判決が下り、石山さん家族を含む原告側の勝利が確定した。これは、ハンセン病元患者の家族が受けた被害に対し、初めて国の責任を認めた歴史的なものだった。その後も裁判や講演で忙しく全国を飛び回る二人だったが、ある日絹子さんの体に異変が起きる。
ディレクターズ・ノート
あなたが心惹かれる長年連れ添ったカップルを2ヶ月で探してください」
アメリカのプロデューサーにそんな無茶振りをされたのが2019年の年明け。シリーズとしての枠組みがすでに決まった後に、その趣旨に沿った出会いを求めるという初めての経験。まず先に出会いがあり、そこから彼らのことをもっと知りたい、魅せられる理由を探りたいと思って作品にすることはあっても、今回のように最初から決まった枠に当てはまりそうな人を探していくのはとても気が引けた。しかし与えられた条件は「50年以上一緒に暮らすカップル」ということだけで、その他は全てこちらの判断を尊重すると言う。更にドラマチックな演出や、ナレーション、インタビュー等を使わず、極力観察的な撮り方をするというシリーズの趣旨にも魅力を感じた。「これまでの人生で最大級レベルの出会いになるはず」と後押しされ、結局その後5ヶ月間、日本中を旅して回ることになった。
そうは言ってもNetflix。6カ国一挙公開というシリーズで制作期間も先に決まっている。撮影期間の約1年間の中で起こりうる出来事を事前に把握するための詳細な聞き取りや、カップルをNetflix側にプレゼンするためのキャスティングビデオの制作も必要だった。人生の先輩たちをこんな私が「キャスティング」する事自体がとても失礼だと感じた。無礼者の私はしかし、旅先で沢山の素敵な先輩方に出会った。それぞれに大切な物語があり、誰もが記録し残すべき時間を生きていた。しかし大抵は片思いで終わった。カメラで日常を追われたくない。静かな暮らしを邪魔されたくない。当然の反応だった。静かに生活を送る彼らにとって、カメラは異物でしかない。
リサーチ期間の再延長もついに限界を迎えていよいよ諦めかけていた頃、石山夫婦に出会った。リサーチ中に、ハンセン病療養所で強いられてきた断種や堕胎の結果、子供を産むことを許されず、二人家族として生きているご夫婦がいると知った。しかしハンセン病に関して無知な私が扱える「テーマ」ではない、と後退りをし一旦白紙にした。その矢先、偶然が重なり石山さん夫妻を全く違う複数のルートで紹介された。早速電話をすると明るい声が迎えてくれ、次の日にはもうご自宅に伺っていた。私はすぐに二人の暖かさに惹かれた。後から思うと、初対面の私の前で繰り広げられる夫婦漫才も、過去の話も、撮りためた写真も、彼らにとってはいまだからこそ見せてくれた一面だった。
「ハンセン病について大きな声で話せるようになったのはつい最近のこと」となれ初めを語り終わった絹子さんは教えてくれた。カメラをいつも首にぶら下げていた春平青年の暗室作業を手伝ったのがきっかけで「火がついちゃった」二人は、共に生きる時間を写真で切り取ってきた(療養所で撮られた多くの写真は社会復帰する際、誰にも見せることはないだろうと処分された)。そして絹子さんは「生活記録」として日々の気持ちや風景を短歌に詠み、手帳に毎日の出来事をしっかりした字で細かく記録していた。おじいちゃんおばあちゃんの家を訪れた孫のようにくつろいでしまっていた私だったが、記録者であり、表現者である二人の「いま」を是非記録したいと心に決めた。
二人を撮影させて欲しいとお願いし、そして次に、自分たちの生活が記録され人に見てもらうという事は二人にとってどういう意味を持つのかと尋ねた。「99.9%は覚悟がついてるのよ。私たちは何も悪い事してない。普通の人だと知ってもらいたい」と絹子さんは答えた。彼女の「覚悟」という言葉も、0.01%も重く響いたが、私はその瞬間、運命の出会いに浮かれた。帰りの電車の中から早速「見つかりました!」と編集者に電話した。
それから10ヶ月、カメラと録音と一緒に三人で毎月ご自宅に通い、二人の生活にカメラとマイクが入り込む日々が始まった。「普段通りに、私たちを無視してください」と無理を言う我々に合わせ、一生懸命自分を演じてくれた。春平さんは常にカメラ目線で、撮影よりも気さくに若者と話すことを楽しんでいるようだった。絹子さんは最初からカメラの存在を全く意識させない演技で、まさに彼女の言う「覚悟」が感じられた。カメラ位置を常に意識し、自然に振舞うベテラン女優のようだった。いつまでもカメラを意識してしまう春平さんに「そんなこと言っちゃダメよ」とこっそり演出さえしてくれた。しかし一見自然体でありながら、一瞬ちらりとカメラに目線を向ける瞬間を発見する度、緊張した時間を彼女に相当強いてしまっていたと、編集をしながら反省した。
リサーチ期間の再延長もついに限界を迎えていよいよ諦めかけていた頃、石山夫婦に出会った。リサーチ中に、ハンセン病療養所で強いられてきた断種や堕胎の結果、子供を産むことを許されず、二人家族として生きているご夫婦がいると知った。しかしハンセン病に関して無知な私が扱える「テーマ」ではない、と後退りをし一旦白紙にした。その矢先、偶然が重なり石山さん夫妻を全く違う複数のルートで紹介された。早速電話をすると明るい声が迎えてくれ、次の日にはもうご自宅に伺っていた。私はすぐに二人の暖かさに惹かれた。後から思うと、初対面の私の前で繰り広げられる夫婦漫才も、過去の話も、撮りためた写真も、彼らにとってはいまだからこそ見せてくれた一面だった。
「ハンセン病について大きな声で話せるようになったのはつい最近のこと」となれ初めを語り終わった絹子さんは教えてくれた。カメラをいつも首にぶら下げていた春平青年の暗室作業を手伝ったのがきっかけで「火がついちゃった」二人は、共に生きる時間を写真で切り取ってきた(療養所で撮られた多くの写真は社会復帰する際、誰にも見せることはないだろうと処分された)。そして絹子さんは「生活記録」として日々の気持ちや風景を短歌に詠み、手帳に毎日の出来事をしっかりした字で細かく記録していた。おじいちゃんおばあちゃんの家を訪れた孫のようにくつろいでしまっていた私だったが、記録者であり、表現者である二人の「いま」を是非記録したいと心に決めた。
二人を撮影させて欲しいとお願いし、そして次に、自分たちの生活が記録され人に見てもらうという事は二人にとってどういう意味を持つのかと尋ねた。「99.9%は覚悟がついてるのよ。私たちは何も悪い事してない。普通の人だと知ってもらいたい」と絹子さんは答えた。彼女の「覚悟」という言葉も、0.01%も重く響いたが、私はその瞬間、運命の出会いに浮かれた。帰りの電車の中から早速「見つかりました!」と編集者に電話した。
それから10ヶ月、カメラと録音と一緒に三人で毎月ご自宅に通い、二人の生活にカメラとマイクが入り込む日々が始まった。「普段通りに、私たちを無視してください」と無理を言う我々に合わせ、一生懸命自分を演じてくれた。春平さんは常にカメラ目線で、撮影よりも気さくに若者と話すことを楽しんでいるようだった。絹子さんは最初からカメラの存在を全く意識させない演技で、まさに彼女の言う「覚悟」が感じられた。カメラ位置を常に意識し、自然に振舞うベテラン女優のようだった。いつまでもカメラを意識してしまう春平さんに「そんなこと言っちゃダメよ」とこっそり演出さえしてくれた。しかし一見自然体でありながら、一瞬ちらりとカメラに目線を向ける瞬間を発見する度、緊張した時間を彼女に相当強いてしまっていたと、編集をしながら反省した。
長年目立たないように生きてきた春平さんと絹子さんは「見られる」事に対して対照的だ。春平さんは、優しかった小学校の先生が春平少年が感染していることを知ると一変し、学校から追い出したエピソードを繰り返し大勢が集まる講演会で声を詰まらせながら話す。絹子さんは夫の病気が話題にのぼるのを恐れ、深い人間関係を避けてきたこともあり、人一倍人の視線に敏感だ。春平さんが「見られること」で「生き延びてきた過去」が認識されるように、絹子さんは「見られる度」に0.01%の覚悟しきれない、演じきれない部分を消化されない感覚として味わっているのではないか。
「俺みたいに”一度死んだ”人間には怖いものなんかないよ。俺よりもむしろ、家族の方が大変だよ」と春平さんは何度も語った。ハンセン病元患者家族国賠訴訟の原告561名の内、数名しか実名を公表していない事だけをとっても、今だ声を上げられないでいる家族の人たちが全国に大勢いることが分かる。裁判で勝利した後でさえ、それまで撮影に全面的に協力してくれていた原告の一人は、ハンセン病との関わりを断ち新しい人生を歩みたいという理由で撮影素材の使用許可を出さなかった。
「見られる側」の覚悟が足りないのではなく、カメラを通して、画面を通じて、そして日常の中での「見る側」の視線が問われていると感じた。絹子さんが土に腰を下ろし小さな花をじっくり見るような、春平さんがカメラの裏側にいる私たちに微笑みかけてくれるような、そういう視線を持ちたいと思った。そして、二人が丁寧に毎日を生きている姿を観る人が、彼らの語りきれない過去や実名を出せないままでいる人たちの現状と、いまを生きる我々が繋がっている事に気付いて欲しい。
撮影も終盤を迎えた2020年1月、新型コロナウイルスによって世界中が「見えない敵」にさらされた。日本ではコロナ感染者の方や医療従事者、その家族に対する差別などハンセン病の歴史を彷彿させる現状が今なお続く。欧米では「中国ウイルス」との政治家の誤った主張からアジア人差別による被害が後を絶たない。このシリーズを観た人が、国境と境界を超えて「共に生きる」ことについて思いを馳せることを願っている。
制作スタッフ
監督:戸田ひかる(とだ・ひかる)
10歳からオランダで育つ。ユトレヒト大学で社会心理学、ロンドン大学大学院で映像人類学・パフォーマンスアートを学ぶ。ロンドンを拠点にディレクターとエスノグラファーとして活動し世界各国で映像を制作。前作『愛と法』(17)で第30回東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門 作品賞、第42回香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。現在は大阪在住。
@hikaru_toda
撮影:小田香(おだ・かおり)
1987年大阪府生まれ。2011年、ホリンズ大学(米国)教養学部映画コースを修了。卒業制作である中編作品『ノイズが言うには』が、なら国際映画祭2011 NARA-wave部門で観客賞を受賞。2013年、映画監督のタル・ベーラが陣頭指揮するfilm.factoryに第1期生として招聘され、2016年に同プログラムを修了。ボスニアの炭鉱を主題とした第一長編作品『鉱 ARAGANE』(15)が山形国際ドキュメンタリー映画祭2017・アジア千波万波部門にて特別賞を受賞。メキシコの地底湖を神秘的に描いた『セノーテ』(19)で第一回大島渚賞を受賞。
@_kaori_oda
録音:川上拓也(かわかみ・たくや)
1984年生まれ。映画美学校ドキュメンタリーコースで学んだ後、フリーの録音・編集としてドキュメンタリー映画を中心に活動。録音担当作品に酒井充子監督『ふたつの祖国、ひとつの愛 イ・ジュンソプの妻』(14)、小林茂監督『風の波紋』(16)、石原海監督『ガーデンアパート』(17)、福間健二監督『パラダイス・ロスト』(19)。整音担当作品に田中圭監督『桜の樹の下』(15)、小森はるか監督『息の跡』(16)、池添俊監督『朝の夢』(19)、島田隆一監督『春を告げる町』(20)など。録音・編集担当作品に酒井充子監督『台湾萬歳』(17)、大浦信行監督『遠近を抱えた女』(18)など。
@kawakami_takuya
編集・プロデューサー:秦 岳志(はた・たけし)
1973年東京都生まれ。大学在学中よりBOX OFFICE映像制作部でテレビ番組、映画予告編制作を担当。99年よりフリーランスとなり、現在はドキュメンタリー映画の編集とプロデュースを中心に活動。編集を担当した主な映画作品に、佐藤真監督『花子』(01)『阿賀の記憶』(04)『エドワード・サイード OUT OF PLACE』(05)、ジャン・ユンカーマン監督『チョムスキー9.11 Power and Terror』(02)、小林茂監督『わたしの季節』(04)『チョコラ!』(08)『風の波紋』(15)、真鍋俊永監督『みんなの学校』(14/編集協力)、小森はるか監督『息の跡』(17)、戸田ひかる監督『愛と法』(17)、原一男監督『ニッポン国VS泉南石綿村』(17)『水俣曼荼羅』(20)など。大阪芸術大学非常勤講師。
@lookingawry
音楽:前田雄一朗/Moojigen
1980年大阪生まれ。ギタリスト、作曲家。幼少期から音楽に溢れる家庭環境で育ち、リバプール音楽大学(LIPA)で学ぶ。その後、自身のバンド「Yaneka」を結成し、ロンドン、ストックホルム、パリの3都市を拠点に活動を始める。また近年はソロプロジェクト「Moojigen」を始動させる他、作曲家、サウンドエンジニアとしても活躍。ISSEY MIYAKEやART COMES FIRSTなどのアパレルブランドのコレクションでのライブ音楽を担当するなど、活動の幅を広げている。映画音楽は戸田ひかる監督『愛と法』(17)に引き続き2作目。
ハンセン病とは
ハンセン病は「らい菌」によって引き起こされる慢性の感染症。非常にゆっくりと進むが、診断の遅れなどにより治療をせずにいると抹消神経の麻痺や皮膚の病変などが起き、以前は顔や手足に後遺症が残ることもありました。しかし1941年にアメリカで開発された「プロミン」を皮切りにその後数多くの薬が開発され、今では早期診断と早期治療により後遺症を残すことなく完治するようになっています。
ハンセン病と偏見・差別
ハンセン病は人類の歴史上もっとも古くから知られ、恐れられてきた病気の一つです。効果的な治療法がなかった時代は患者の外見に現れる症状や、感染に対する恐れなどから、何世紀にもわたり世界中で業病、天刑、呪いなどと忌み嫌われ、患者たちは故郷を追われ、あるいは隔離されてきました。また、ハンセン病は遺伝すると誤って認識されていたことも偏見・差別を加速させました。
国による隔離政策
日本では明治時代以降、「文明国」になるためハンセン病患者を根絶することを目標に、「癩予防に関する件」(1907年)やその改正法である「癩予防法」(1931年)などの法律によって、治療よりも隔離を主目的とした政策が行われました。この「癩予防法」により日本中全てのハンセン病患者を療養所に隔離できるようになり、ハンセン病患者の人権が大きく侵害されました。患者は療養所からの外出を禁止される一方で、強制労働、堕胎・断種手術などを強いられました。職員の命令に従わない患者は監禁室に入れられるなど厳しく処罰されました。
無らい県運動
隔離政策の強化により世間に「おそろしい伝染病」との誤った認識が流布され、偏見・差別が助長されました。並行して、官民が一体となって患者を摘発し療養所に送り込む「無らい県運動」が展開され、地域住民自身がハンセン病患者の発見・追放・収容促進の役割を担いました。患者は療養所以外の居場所を失い、患者家族までもが地域から排除され差別を受け続けることになりました。
「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟・ハンセン病家族国家賠償請求訴訟
国際的には隔離政策が廃止される傾向となる中、日本では戦後、特効薬が開発されてもなお隔離を定めた「らい予防法」(1953年)が制定され、1996年に廃止されるまで長きにわたり隔離政策が続きました。これに対し、ハンセン病回復者たちは日本国憲法が定める基本的人権を侵害するものであったとして1998年、「らい予防法」違憲国家賠償訴訟を起こしました。この裁判は2001年に熊本地裁で原告勝訴となり、国の責任が認められました。また2019年には「家族訴訟」でも原告が勝訴し、隔離政策により家族への偏見差別が助長されたことと、家族関係が阻害された事が認められ、判決文では市民の責任も指摘されました。これらの裁判を経てもなお、原告である回復者・家族の方々の多くは実名を明かすことができず、親戚にすらハンセン病の罹患歴について明かすことができない状況が続いています。
ハンセン病療養所
日本国内には現在14箇所の療養所が存在し、入所者の平均年齢はおよそ86歳、多くの入所者の在所期間は60年を超えます。ハンセン病自体は治癒していますが、病気を隠そうと治療を受けるのが遅れたり、療養所での過酷な労働による二次障害を負ったりしたことが理由で、深刻な後遺症を抱えています。裁判の結果、社会復帰者への支援の仕組みが作られたにもかかわらず、いまだに入所されている回復者は全国で1094名(2020年5月1日現在)にのぼります。長年の隔離政策により社会や家族との繋がりを断たれ、高齢化も進み、社会復帰や経済的自立は困難な状態です。療養所で亡くなった方の多くは故郷のお墓に入る事が叶わぬまま、療養所内の納骨堂に納められています。
「らい病」から「ハンセン病」への病名変更
1996年「らい予防法」が廃止されたのに伴い、それまで歴史上差別的に使われてきた「癩」「らい」「らい病」という言葉は、回復者の願いによって、らい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名前をとって「ハンセン病」と病名が改められました。
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【参考】
- 国立ハンセン病資料館
http://www.hansen-dis.jp/ - 日本財団 ハンセン病制圧活動サイト
https://leprosy.jp/ - 厚生労働省 ハンセン病情報ページ
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/hansen/ - ハンセン病国賠弁護団
http://www.hansenkokubai.gr.jp/
教育目的上映について
教育目的上映ガイドライン
インターネット配信サービスであるNetflixは原則として個人宅で視聴することが前提ですが、学校の授業やコミュニティグループの会合、勉強会など「教育の場」での無料自主上映が可能になりました。権利関係などの理由上、非営利での上映が条件となります。今後詳しくご案内させていただくために、教育目的上映を検討される団体・個人様には一度ガイドラインをご確認いただいた上で上映お問合せフォームのご提出をお願い致します。
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教育を目的とした上映の条件
- Netflixアカウントの所有者がNetflixサービスを介して映画にアクセスし上映してください。DVDなどの準備は出来ません。
- 非営利および非商業的な上映会に限られます。入場料の徴収や資金調達、カンパを募ること、広告を受けること、スポンサーをつけることはできません。
- 政治や選挙キャンペーンでの上映はできません。
- 上映を告知する際にNetflixのロゴは使用しないでください。上映会がNetflixの”公式行事”であること、あるいはNetflixから後援を受けていることを示唆するような行為も行わないでください。
- 上映は1団体あたり1回限り可能です。授業や講座のカリキュラムが例えば1年単位であれば、次の年の同じ授業での上映は可能です。
※詳細は下記URLから詳しい条件をご確認ください。
https://help.netflix.com/ja/node/57695/
なお、Netflixのアカウント登録には支払い方法の登録が必要ですが、クレジットカード以外にも、プリペイドカード(2000円〜)を選択することも可能です。プリペイドカードは全国のコンビニや専用のオンラインショップでご購入頂けます。
https://www.netflix.com/gift-cards
映画のお供に
石山さん夫妻の波乱万丈の人生が
たっぷり語られています
ボンちゃんは 82歳、元気だよ!– あるハンセン病回復者の物語り
石山春平著/社会評論社刊
四六判並製・224頁 定価=本体1700円+税
ISBN978-4-7845-2412-9 2018年10月刊